2019年12月10日

三雲祥之助


美大に入ると三雲祥之助先生のアトリエに身を置くことになった。
知的で優雅な雰囲気をまとった先生に憧れた。

三雲先生はパリで絵を始められた。
美術の本質を知ってから、手の仕事につかれた。

帰国後、チェニーノ・チェニーニ『絵画要綱』の訳を
美術雑誌「アトリエ」に連載する。

昭和10・11年のことだから、私は知る由もなかった
中村彜も『芸術の書』として訳していて、画家の必読書ともいえる技法書だ。

二人の画家は正道を歩んだ。


三雲先生はパリの後、地中海のマヨルカ島に滞在し制作を行った。
半世紀後、運命に導かれて私もその島に住み絵を描いた。

三雲祥之助先生の『原初に帰る』姿勢が、
エミシ文化に魅かれている今の私にもあることを願っている。


【人の最新記事】
posted by gomi at 07:38|

2019年12月01日

高田博厚


子供のころから月に一回、講談社の分厚い美術全集を
父が持ち帰ってくれていた。

その中で高田博厚先生の作品写真は繰り返し眺めていた。
『ロマン・ロラン夫人像』『ラ・カテドラル』

ヘルマン・ヘッセの訳でも知られる片山敏彦と親友だったことも知り、
高田先生の著作は私の美術の教科書となった。

パリに滞在した時も、先生の指示通り
サント・シャペル、クリュニュー、モネの睡蓮から見て廻った。

先生の文章はどれも深いが、
ヘッセとロランの友情についての美しい文がある


奥様が電話番号を教えてくださり、
鎌倉のアトリエを訪れるように言ってくださったことがある。

若かった私は臆して伺えなかった。
それでいて江ノ電の極楽寺駅を降り、西田幾多郎の家の脇を通り

坂の上の玄関に置かれた、
ロンダニーニのピエタを見つめていたことがある。


現在、豊科近代美術館をはじめ、
高田先生の作品に触れる場所があることを幸せに思う。

posted by gomi at 08:01|

2019年11月20日

ヘルマン・ヘッセ


”僕はただ、自分の中から自然に生まれてくるものを
生きてみようとしたに過ぎない。
それがどうして、こんなにも困難だったのか”

16歳の誕生日に読んだ、
ヘルマン・ヘッセの『デミアン』だった。

個から普遍へと向かう
大いなる道すじが示されていた。

美術・音楽・文学・演劇 の世界が一気に押し寄せてきた。

ヘッセの作品を制作順に読み進み『ガラス玉演戯』に至るころ、
手仕事の習得に憧れるようになった。

絵を描くことを仕事にしたくなった。

芸術家になろうとは思わなかったし、
なれるとも思わなかった。


ほどなくして、ヘッセの再評価がスペイン語圏から沸き起こる。


ヘッセの父は内村鑑三の『代表的日本人』をドイツ語に訳し、
子供の頃のヘッセは新島襄に会っている。

posted by gomi at 06:42|