2019年11月01日


2019年に入って体調を崩した。個展の予定を取り消して、
眼の手術も受けた。
幸い手術はうまくいって、光と色を取り戻した気がしている。

これからは静かに制作にうち込みたいという気持ちが強くなった。


出版社に勤めていた父が言っていた
「本当にいい本は自費出版以外にはあり得ない」と。

私の個展は企画画廊や百貨店でやらせていただいても
作家主体の自費出版のようなものだった。

そして「絵が行き先を選ぶ」という実感を持つようになった。

絵が生まれた時、すでにその絵の行き先は決ま っているように思う。
求めてくださる方にとっては最初から「私の絵」なのだ。

そのことの全体が光に満ちている。


最初の滞欧から戻って技法の勉強がひと区切りついたとき
「今まで勉強してきたことをまとめておきなさい」と父に言われた。

『絵画ノート』という小冊子を作った時、
喜んで編集をかって出てくれた。

絵は自分で描くものではないと思っている。
その人を通して生まれてくるものだと思う。

自分と父を通して生まれてくるのだろう。

『絵画ノート』の冒頭に“光とは精神に他ならない”とうたった。

続きを読む
posted by gomi at 10:13|

2019年11月20日

ヘルマン・ヘッセ


“僕はただ、自分の中から自然に生まれてくるものを
生きてみようとしたに過ぎない。
それがどうして、こんなにも困難だったのか”

16歳の誕生日に読んだ、
ヘルマン・ヘッセの『デミアン』だった。

個から普遍へと向かう
大いなる道すじが示されていた。

美術・音楽・文学・演劇 の世界が一気に押し寄せてきた。

ヘッセの作品を制作順に読み進み『ガラス玉演戯』に至るころ、
手仕事の習得に憧れるようになった。

絵を描くことを仕事にしたくなった。

芸術家になろうとは思わなかったし、
なれるとも思わなかった。

ほどなくして、ヘッセの再評価がスペイン語圏から沸き起こる。


ヘッセの父は内村鑑三の『代表的日本人』をドイツ語に訳し、
子供の頃のヘッセは新島襄に会っている。

posted by gomi at 06:42|

2019年12月01日

高田博厚


子供のころから月に一回、講談社の分厚い美術全集を
父が持ち帰ってくれていた。

その中で高田博厚先生の作品写真は繰り返し眺めていた。
『ロマン・ロラン夫人像』『ラ・カテドラル』

ヘルマン・ヘッセの訳でも知られる片山敏彦と親友だったことも知り、
高田先生の著作は私の美術の教科書となった。

パリに滞在した時も、先生の指示通り
サント・シャペル、クリュニュー、モネの睡蓮から見て廻った。

先生の文章はどれも深いが、
ヘッセとロランの友情についての美しい文がある


奥様が電話番号を教えてくださり、
鎌倉のアトリエを訪れるように言ってくださったことがある。

若かった私は臆して伺えなかった。
それでいて江ノ電の極楽寺駅を降り、西田幾多郎の家の脇を通り

坂の上の玄関に置かれた、
ロンダニーニのピエタを見つめていたことがある。


現在、豊科近代美術館をはじめ、
高田先生の作品に触れる場所があることを幸せに思う。

posted by gomi at 08:01|

2019年12月10日

三雲祥之助


美大に入ると三雲祥之助先生のアトリエに身を置くことになった。
知的で優雅な雰囲気をまとった先生に憧れた。

三雲先生はパリで絵を始められた。
美術の本質を知ってから、手の仕事につかれた。

帰国後、チェニーノ・チェニーニ『絵画要綱』の訳を
美術雑誌「アトリエ」に連載する。

昭和10・11年のことだから、私は知る由もなかった
中村彝も『芸術の書』として訳していて、画家の必読書ともいえる技法書だ。

二人の画家は正道を歩んだ。


三雲先生はパリの後、地中海のマヨルカ島に滞在し制作を行った。
半世紀後、運命に導かれて私もその島に住み絵を描いた。

三雲祥之助先生の『原初に帰る』姿勢が、
エミシ文化に魅かれている今の私にもあることを願っている。


posted by gomi at 07:38|

2019年12月19日

美大の友人


お世話になっている東京・京橋の画廊
ギャルリー・コパンダールの乾誠一郎さんから、

「誰か良い作家さんを知りませんか」と聞かれたとき、
鬼澤和義君の名前を挙げた。

美術教師になり団体にも属して、
構造のある街の絵を描いていたのを知っていた。

画廊から連絡を取ったがなかなか返事は来なかった。
半年後、亡くなったのを知った。


「美術の窓」の出版で知られる「生活の友社」を立ち上げた一井健二君が
池袋東武百貨店での個展に来てくれた。

「やっぱり、詩人の絵だな」と言った。
ギャルリー・コパンダールにも来てくれた。

「浦上玉堂みたいだ」
「いずれゆっくり会おう」

そう言っているうちに訃報に接した。

僕は君の絵を見たかった。

posted by gomi at 12:06|